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リスボンの広場 [広場]

『60歳からのひとり旅Ⅳ リスボンの広場』


現在のリスボンの玄関は、コンメルシオ広場、これを日本語で書くと“商業広場”。貿易広場と訳している人がいて、疑問に思い調べた。1755年の大地震後にできた広場。「国王の広場」として設計、計画の途中「王の商業広場」、最終的には現在の「商業広場」。金七紀男著“リスボンの大地震と啓蒙都市の建設”参照www009.upp.so-net.ne.jp/fial/activity/.../fial_forum34_1203.p

ポルトガルの歴史は、紀元前8世紀フェニキア時代から始り、紀元前2世紀ローマ人、714年から1147年までのイスラム教徒の支配、そして最終的にキリスト教徒に回復されるが、歴史はこちらを参照ja.wikipedia.org/wiki/ポルトガル但し、「商業広場」の広さは、金七さんの方が正しい。ロシオ広場を実測したことから分かった。


ポルトガルは15世紀からアフリカ,アジア、アメリカに進出して各地に植民地を築き、都市を建設した。私が見学したのは、マカオだ。1554年に首都にしている。植民地との連絡は船舶を利用。そのため、海湾に拠点とし、海賊の攻撃に備えて、海から湾内から奥深い傾斜地が選ばれた。それが、テージョ川の右岸、海洋から17km入った現在のリスボン(1255年にコインブラからリスボンに首都を移す)。

リスボンは、1755年の大地震の後に築かれた。この地震の被害が少ないのが、“サン・ジョルジョ城”の斜面のアルファマ地区、対岸から見るとリスボンの全景は半円劇場というか、こんもりとした低い丘を思わせる。
リスボン全景JPG.JPGリスボン全景2.JPG対岸のカシ-リャス行きの船から



大地震の1755年以前のリスボンは、アルファマ地区のようなイスラム型都市。1730年頃の人口は25万人。
リスボン歴史.jpg



リスボン大震災
1755年11月1日、晴れ渡った日曜日の朝9時30分すぎ、直下型の地震。北から南に激震が貫いた。地震に続いて火事。翌年ボンバル侯爵は再建計画。具体的な設計の責任者はエウジェニオ・ドス・サントス大尉。
リスボン中世.jpg


計画の対象になる地域は、王宮広場(後の商業広場)とロシオ広場の間に位置、リスボンの心臓部にあたるバイシャ地区。

サントスの計画では王宮広場とロシオがバイシャの南北に2つの核として決定的な役割を果たし、3本の街路がこの2つを結んでいる地震から10年後1776年バイシャ地区と周辺に140の建物が建設された。


『リスボンの中心の都市構成』


リスボンの広場の面白さは、テージョ川に面する、リスボンの表玄関「商業広場」と北に延びる3本の街路とロシオ広場とフェゲイラ広場の都市構成と思い、実測した。

ロッシオ広場193m×85mとフェゲイラ広場72m×111mと樹木のあるサンドミンゴス広場、変形だが60m×30m程度の3つの広場を実測した。図面で書いていくとコンメルシオ広場177m×192mと言うことが分かった。
これらの4つの広場の組み合わせが好きだ。その中でも、サンドミンゴス広場が楽しい。朝、昼間はアフリカ系黒人の情報交換の場になり、夕方からは リリュール酒1.35ユーロの店の周辺には、たくさんの人が集まる。

リスボン3つの広場.jpg

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